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Tsubameyado blog -side art-

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切り絵でしか、描けない。4

「花は実を結ぶために散る。」
今までも私が何度か語ったことのある、とても好きな言葉です。

明けない夜は無く、春はまた巡る。

どうして草木は花をつけるのか。

それは、本当には、実を結ぶためです。


DSCN7238.JPG

桜の満開の頃を見ると、その花を手折って持ち帰りたくなってしまいます。

この切り絵桜には、なんだかそんな、満開の桜の枝を手折ってきたような花びらの存在感がありました。
花びらの薄さ、柔らかさ。

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まだ私が本当に幼い頃、私は花を描くことが苦手でした。

ただ、幼稚園の頃には既に薔薇を描いていたことは覚えています。
もちろん今にして思えば、それはとても子供らしいものでした。

しかし小学校に入学してから、花を描くことの難しさを実感するのです。
それから随分成長するまで、私は花を描くことから離れていました。

その後幾年が過ぎ、私は切り絵で絵を描くことを覚えました。

初めはただ自分の描いた絵を切るだけでしたが、
それでも切り絵でやるからには切り絵らしさ、
切り絵である理由というのはいつも意識していた気がします。

そうして切り絵で表現していくうちに、
私は切り絵でなら上手く花を描けることに気がつきました。
(それは花に限ったことではありませんが)

切り絵と花、というのはとても相性の良いものでした。
西洋の花、東洋の花、どちらともうまくマッチさせることができるのです。

しかし初めはやはり大変なものでした。
切ることによって絵を描くというだけでも既にとても精神を消耗するものですのに、
更にその方法によって花を描くのです。


花は物体ではなくて、生きているものです。

毎日生きて、形を変え、

似ている形のものがたくさんあっても、
あなたと同じ、私と同じ、
そこにしかないもの。


苦手なものを重ねていったら、いつの間にか一番得意なものになっていました。


他の技法でもっと上手に表現出来ることを、
敢えて切り絵でやる必要はありません。

それなら初めからその技法で表現することが、
一番適切なのです。


私はこの花々を、切り絵以外の方法で描くことはできません。


切り絵にとても似た味の線を引くことの出来る方法は、他にもあるかもしれません。
ただそれは、全然別物です。

私は絵を描く技法の一つとして、紙を切って絵を描いています。
紙を切る、というのと紙を切って絵を描く、というのは似ているようで違うことなのかもしれません。

だから私は同じものは二度と作れないのです。



私にとって切り絵は、花を描いていてもそのじつは、実のようなものなのかもしれません。

紙の花に心を散らして、実になりました。

切り絵でしか、描けない。3

20111215.jpg


切り絵をしていると、
「切ること」もとても勇気が必要なことだし、
「切らないこと」もまたとても勇気が必要なことだと感じます。


そのどちらが大事、優劣ということは無く、その二つは同じ重さで、作品の上にあると思います。

切り絵というのは技法上、切ってしまった部分はもう、そうする前には戻れません。
だけどそれをふまえて、同じ重さだと思うのです。
そうする前には戻れないもの、その最たるものは「人の記憶」ではないでしょうか。
知らなかった前には戻れない。

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今日は青い薔薇を見つけました、
以前にもこの花屋さんに青い薔薇が入荷されているのを見かけたことがあったのですが、
買おうかどうしようか迷って、結局その時は買わずにいたのですが、後から気になってしまって、
それからその花屋の近くを通る度に、また入荷されていないかチェックしていたのですが、今日やっと再度入荷されていました。
以前見かけた時は、もっと青が深い薔薇も一緒にあったのですが、今回はそちらはありませんでした。

やっぱり薔薇は綺麗です。
青い薔薇の花言葉が「あり得ないもの」だったのは過去のことです。
今の花言葉は「夢が叶う」。

青色は空の色。
イミテーションではなくて、もう本当にそこにちゃんと、確かにそこにあるのですから、怖がることもありません。


時間にはアンドゥ・リドゥはありません。
だけど倒れてもまた起き上がる。
もう駄目だ、と諦めてしまわない。
そこには意味があるのではないかと思います。
 

切り絵でしか、描けない。2

「研ぎ澄まされた刃の美しい
その切っ先によく似た、そなたの横顔・・・」


これは皆さんご存知の、有名な歌の言葉ですが、
切り絵を作っていて、自分はそんな切り絵を作りたいんだな、と思いました。
昔からずっと感じていた感覚が、この歌詞に集約されているような気さえします。

研ぎ澄まされた刃の、美しい切っ先によく似た横顔・・・

ものすごい言葉だと思います。
切っ先、
例えばこの言葉だけでも、息の一瞬止まるような緊張感を感じます。

「美しい」と「綺麗」も、似ている言葉のようですが、全然、違います。
美しい・・・、
とてもパワーのある、重い言葉です。


自分が切り絵である"最大"の理由は、
「持ち上げられることが出来るから」
「光を通すから」
「切るという感覚が楽しいから」
では、ないように思います。

それよりももっと大きな理由。
それが、この歌詞にあるかもしれません。

自分の切り絵の半分以上は、下書きがありません。
見えない線を、直感の一回で引いています。
見えない線、
そこに、一分後にはあるはずの線。
それを、心の眼で見るような感覚……

そして、切る前に確認します。
本当に、その線でいいのか?と。



そして紙は、生きているように、まさに刻々と、変わっていく。

自分の切り絵は、その過程が、一番時間と神経を使います。


後悔しないように生きる。
永遠、というものですら、一瞬一瞬の積み重ねで出来ているといいます。
それなら自分は、この一瞬に賭けます。